新見が誇る偉人「太田辰五郎」

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皆さんは太田辰五郎という新見が誇る偉大な実業家をご存知ですか?恥ずかしながら、私はつい最近まで、全く知りませんでした。もちろん、学校で習った記憶もありません。ところが、新見市の歴史、特にたたら製鉄や千屋牛などの地場産業を語る上で、最も重要な役割を果たす人物であり、どうして今まで知らずに生きてきたのか不思議なくらいです。

私が初めて太田辰五郎の名前を耳にしたのは、フリーペーパー「にいみいろ」の編集会議。新見市の偉人を特集してはどうかというメンバーからの提案があったからです。そこから、新見市千屋に「たつごろう球場」(岡山県共生高校野球部専用グランド)を見つけ、同じく新見市千屋で炭の製造技術を学ぶ「辰五郎塾」(峠田一也塾長)があるのを知り、何となく太田辰五郎という人は地域の有名人なんだと認識し始めました。そして、「にいみいろ」8月号で行った千屋牛を語り合うスペシャル座談会で、千屋牛を作った人として挙げられたのが太田辰五郎でした。

同郷にそんな偉人がいたんだ!という驚きとともに、もっときちんと知っておきたいと思っていたところ、新見市中央図書館で、たまたま太田辰五郎の本を見つけたので、貸りて読んでみました。その名も「伝記 太田辰五郎」(太田忠久著・1991年)。昔風のやや読みにくい文体で、歴史用語・専門用語も多かったため、完璧に理解するのは難しかったのですが、それでも太田辰五郎の躍動感あふれる生き様に触れ、楽しみながら読み進めることができました。コレ、本当にオススメです!新見市民の方はもちろん、新見に興味のある方、歴史ものやヒーローものが好きな方は、是非読んでみてください。

惹きつけるポイントはズバリ2つ。当時太田家は、たたら製鉄で巨万の富を得ていたにも関わらず、原料である砂鉄や燃料となる木材が将来的に尽きることを危惧し、新たなビジネスとして千屋牛を手掛けた先見性と実行力。そして、豪傑でありながら心根が優しく人情に厚い人間的な魅力です。太田辰五郎という稀代のヒーローは、某N局の大河ドラマの主人公にもなり得る、圧倒的な存在感でした。あたらめて新見に生まれたことを誇りに思える、そんな読書タイムを過ごすことができますよ!

 

以下に太田辰五郎の経歴を記載しておきます。※岡山デジタル百貨店(岡山県立図書館)より抜粋

寛政2年(1790年)阿賀郡千屋村(現新見市)に生まれる。天保2年(1831年)、家業である鉄山業と「千両箱を飛び石にして江戸まで行く」と言われるほどの莫大な資産を受け継ぐ。砂鉄を採取するための鉄穴流(かんななが)しは、大量の濁水や土砂を高梁川に流出させ、下流一帯の農家に被害をもたらすこととなる。下流の人々からの抗議が何度も起こっていたが、その度に上流では死活問題であることを理由に退けていた。期間や場所を限定するなどの案も採用されたが、この対立がなくなることはなく、辰五郎のときには江戸幕府の裁きを受けるほどの騒ぎとなった。辰五郎は、その一方で莫大な資産を背景に牛の改良を企図し、元来小型種であった千屋牛を、大型で丈夫、性質のおとなしいものに改良した。その優良な牛は「大赤蔓(おおあかつる)」と呼ばれ、役肉用牛として喜ばれた。完成した千屋牛を広く販売するため、天保5年(1834年)辰五郎は自宅を提供して千屋牛馬市を開設する。以後、毎年この市に集まる人々の評判によって、千屋牛の名は全国的に知られるようになった。また、牛市自体も農繁期の後に開催されたので、芝居や露店が集まり、次第に大変な賑わいをみせるようになったという。現在でも岡山県種雄牛の多くは、この系統といわれており、岡山県では、碁盤の上に乗る千屋牛の像を千屋ダム近くに設置して、その性質の良さをアピールしている。その他、太田辰五郎の名は社会的にも様々な貢献をしたことで知られた。天保4年(1833年)、6年(1835年)のいわゆる天保の大飢饉のときには、飢えに苦しむ人々のために、莫大な財産を使って救済にあたった。また、江戸城西の丸普請用の小割鉄400束を献納したこともあった。天保8年(1837年)に、花見村(現新見市千屋花見)の農民が強訴を計画したときには、辰五郎は彼らの説得に当たり中止させた。これらの功績により、永代苗字帯刀を許されている。嘉永7年(1854年)に没する。

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